くま子の思うところ

観劇録中心。良いか悪いかではなく、私が好きかそうじゃないか。

推しがいる人はすごい

色々あって、この考えに至るようになった。

こう書くと余計いぶかしまれそうだけど、揶揄とかじゃなくて本気でそう思ってます。

私は推しを持つことを諦めてしまった人間なので。

 

私の思う推し

推し始めてからその人の出演する作品を全て網羅し(せめて一回は見る、舞台なら劇場で、映画なら映画館で)、定期的に手紙を出し、SNSもチェックし、行く末を案じ、邪魔にも負担にもならないよう活躍を応援したいと思える存在のこと。

 

推し遍歴

推しと思っていた人が3人いる。

自分で書いといてすぐその定義に反する話をするのはどうかと思うけど、最初に私が推しだと思った人の現場には全然通っていないし、手紙も出してない。じゃあ推しじゃないじゃん、と今となっては思う。

けど、当時の私にとっては紛れもない推しだったし、今あらゆる作品の評価をこの人の作品で培ったものさし基準で測っている自覚がある。

神様と言うほど心酔してはいませんが、今でもリーダー(指導者)だと思っている。

若手俳優ではなく、パフォーミングアーティストでした。

でしたと書くのは、その人が表舞台から引退してしまったからで、推さなくなった理由も新しいパフォーマンスが見られなくなったから。

あと2人は、どちらも若手俳優(※推していた当時のカテゴライズだと)。仮にAとBとする。

 

着ぐるみのあなたが好き

いつかTwitterで「推しは花束を抱えてやってくるものだ」みたいなツイートを見たことがあったけど、推しAはまさにそれだった。

一目惚れ。

まず顔が好き。というかルックス全部好き。声が好き。変に芝居がかってなくて自然なんだけど、日常ではお目にかかれないどこかスマートな口ぶりで紡がれる台詞が素敵。歌もダンスもセンターの輝き。自分のこと絶対かっこいいって分かってる堂々とした態度がまたかっこいい。お茶目なところもあってコメディもお手のものだし、シリアスな芝居も光ってる。

どんなにつまらない作品で見ても、推しの芝居は絶対に際立ってて最高だった。期待を裏切らないし、失敗しない自慢の推し。

そんな推しが、時代の流れもあって、というか本人がやりたかったんだと思いますが、SNSを始めた。これが推し離れのきっかけだった。

投稿の内容がちょっとあまりにも、だった。

どういうへんてこさかという説明が難しいのだけど、アンチと喧嘩したりはしてませんでした。ただ、大事な次回出演作の告知もせず、街で見つけた面白い風景を投稿してみたり、おもしろ小話を呟いてファンに構ってもらってキャッキャと喜んでいたり、かと思えば何かに対する怒りをオブラートに包まず投稿してみたり。

表に立つ人間として、オフィシャルの投稿としてそれはちょっとどうかな、と私の価値基準では思ってしまった。今思い返せば、舞台のアフタートークや配信番組の言動でもちょっと怪しいところがあったので、心構えしておくべきだった。舞台で輝く姿が完璧だっただけに勝手に理想像を高く作り上げてしまっていたのはこちらの落ち度なので、今非常に反省しています。

結局、舞台で輝く推しを見ていても当日や前日の投稿が頭をよぎるようになって、集中できなくなってしまった。

そこで考え直して、私が好きなのは板の上に立っているこの人の着ぐるみで、中の人には全く興味がない。むしろ中の人を意識することで応援する気持ちが削がれてしまうのでSNSは見ない、というスタンスをとるようになった。

前述の推しの定義に戻る。当てはまらない。担降りです。

シンプルに、こんな投稿する人を推しと呼んでいいのか、自己嫌悪に陥ったと言うのも正直なところです。推しと呼ぶにはちょっと恥ずかしかった。当時は。

ただ、根本的に嫌いになった訳ではなくこの方のパフォーマンスを100%楽しむ方法を見つけたという感じなので、未だにこの元推しの現場には各作品一回は足を運ぶ。好きな作品は何回も見に行く。でもSNSは絶対見ないし、手紙ももう書かない。手紙は書いてもいいかなと思わなくもないけど、担降りしてから実行に移すまでには至っていない。

 

推しがいようと地獄は地獄

推しBは、色んな作品を通して見る中でじわじわ好きになっていったタイプ。さっきと逆で「会うたび一本一本バラを渡されて、気づいたら花束になってた」。素敵な表現ですよね。

前述の推しと比べ物にならないレベルで駆け出しだったので、最初はアンサンブルスタートでした。そこから少しずつ役がついて、セリフが増えて、番手が上がって、スケジュールの余白が減っていった。元々、芝居のセンスがあると勝手に見込んで推し始めたけど、その原石がどんどん磨かれていく過程をリアルタイムで見られたのはめちゃくちゃ楽しい経験だったと今も思う。

これは副産物的な儲け物だったけど、推し始めた当時ファンがすごく少なかったから認知も早かった。ファンサが特別に上手だったりした訳ではない。ただ、ファンに対する感謝を自分の言葉で伝えようとしてくれる優しい人だった。とにかくがむしゃらで、仕事楽しい!って感じが全身から伝わってくるのも見ていて気持ち良かった。推しAを推していた時より自分の応援が推しの力になっているんじゃないかという、幻や妄想に近い手応えがあってこれも幸せだった。

推しBはキャリアがなかったので、節操なくいろんな作品に出演していた。結果、とにかくビックリするレベルの駄作を見る羽目になった。これが担降りの一番大きな要因。

Aを推していた時もつまらない作品はあったけど、その時感じたやるせなさを遥かに超える苦しみがこの世に存在するなんて知りたくもなかった。そういう作品にも分け隔てなく、Bが「見に来てください!」とか「新たな挑戦にワクワクしています!」とか前向きに臨むものだから辛さ倍増。(これは余談だけど、推していた当時私がつまらないと思った作品は、Aも大抵宣伝が疎かだった。褒められたもんじゃないけど、分かりやすくてよかったし救いだった。)

よく、得られる感情がなにもない作品を「虚無」と呼ぶ。私にとっては「地獄」だった。もしくは苦行。何も残らないのではなく、舞台を見なければ湧き上がってこなかった、感じる必要のなかった怒りや憎しみや嫌悪の念が私の心に渦巻く。上質な不条理劇を見た後の消化しきれない複雑な感情は、例えるなら初めて訪れた国のスパイスの効いた料理かもしれないけど、駄作の後味は残飯のそれです。

無駄に認知されてしまっていたものだから、駄作と分かっても通うしかなかった。前方席だと寝られないからわざと後方席を買い増して、前方を空席にしたこともある。ごめんなさい。どこまで本気かわからないけど、表面上、一生懸命作品に取り組む推しに本音とはいえ素直な感想を伝えるのははばかられて、思ってもいない賞賛を書き並べた手紙を何通も出した。辛かった。マチネを見終わって、あまりに面白くなくてマチソワ間に泣き、ソワレの劇場に泣き腫らした目で行った事もある。

コロナ禍になって、推しの舞台が中止になって時間が出来た。このままでいいのかと考え始めた。いつなにがあるか分からない人生。つまらない作品に時間とお金を費やす意味があるのか。自分の感情を犠牲にして、他人の人生応援して何が楽しい。

で、担降りです。もだもだしていたので降りてまだ半年ぐらい。

推しBには未だに手紙を書く。たまに、Bの出演作が面白かったら。未だに出演作の3本に1本はキケンな香りがするので現場に行かない作品もある。でも私が応援していた当時より、ずっとオタクが増えたのでこんな面倒なオタクが1人消えたところで全然問題ない。どんどん売れていく、よかった。

こうして推しなしオタクになった。後悔はしていない。

 

外交が苦手

これは推しには直接関係のないこと。界隈特有なのかもしれないし、ほとんど私の偏見ということをご容赦願いたい。

若手俳優界隈、なにかと同担・他担ネットワークが必要になりがち。

トレーディング系物販、席のサイド変更、誰かのFCイベントのゲスト出演、この辺はある程度諦められたり自分一人でも何とかできるけど、チケットが先着先行なのは本当に困った。リアルの友達に縁を切られる覚悟で毎回頭を下げて頼んでいた。

そもそも私はコミュ障で、友達も多くない。

まして同担の知り合いは現役時代、ほとんどいなかった。見栄を張って「ほとんど」と書いたけど、正直0人である。

人の顔を覚えることも本当に苦手なので、ほぼ全通の同担、いわゆるおまいつとそうじゃない人の区別すら担降りするギリギリまでつかなかった。

人に話しかけてネットワークを構築するのが苦手。逆に話しかけられてもどうしていいか分からない。人に物を頼む行為自体があまり好きじゃない。物理的にも精神的にも貸し借りは嫌い。トレーディング系は推しが出るまで買い続けるか郵送取引専門でやっていた。祝い花、人と出したことない。イベントはいつもぼっち、話しかけられてもその場だけ楽しくお話して名乗らずお別れ。オタク友達の友達のオタクと2人っきりにされる、なにを話せばいい?

一番苦手だったのは終演後、劇場前にたまって喋っている集団に入れられること。正直今も見るのすら苦手、早く帰るかお店に入りましょう。

今は、こうしためんどくさい私の性格を理解した友達としか観劇しない、もしくはぼっち観劇なのでストレスフリーです。

お気に入りのお店でブランチして、マチネ観劇して、近くのカフェで自分用メモに感想をまとめながら時間潰して、ソワレ観劇して、終わったらぴゃっとお家に帰る。性に合っている。

ここまで振り返って、生身の人間を推す行為自体がそもそも自分に合っていないんだろうなとも気付きました。相手が完璧超人ではないのに、勝手に理想像を照らし合わせて裏切られた気になりがち。あと、ギブアンドテイクはそこまで意識しているつもりないけど、「推しが見られればどんな作品でもハッピー!」というほど天使の心は持てない。払ったチケット代分の満足はしたい。

今は、気になる作品・好きな俳優さんをその時の気分でふらふら見ている。それでもつまらない作品を引っ掛けることはあるけど、以前に比べたら減った。前は駄作を見ることが「義務」のような不健康な思考回路をしていたけど、今は健全に、気楽に演劇を楽しんでいる。

 

推しがいた方が絶対楽しい

しかし、結論はこれ。推しのいないオタ活はなんかさびしい。

推しがいる時、制作やら運営やら事務所やらになにかと文句言いがちだったけど楽しかったなと思う。

優勝エピソードまでは持ってないけど、認知されててよかったということもあり。認知あったらあったで承認欲求で辛いこともあったから、なくても十分楽しかったなと。

今、推しがいる皆さん。推し活をしている皆さん、本当に素晴らしいです。羨ましいです。お疲れ様です。

私が勝手に定義した内容に当てはまらなくても、ご覧になってくださった方皆さんがそれぞれ私には推しがいます!と公言できるならそれだけで素晴らしいと思います。

私は自分の性格上、推しを持つことに向いていないと気づいてしまったので当面、新しい推しを見つける元気はありません。

いつかバラの花束を抱えた誰かが板の上に立っているのを見つけられたらいいなぁ。良作で。